LOGIN桜都市、スターロード商店街。
法子の地元で、夏祭りの提灯が灯っていた。東條菊乃は浴衣姿で歩く。
傍らには日傘と荷物を持つ執事の老紳士。(……屋台をひと回りしてから帰りましょうか)
そう思った矢先。
「へいらっしゃ〜い! 早く買わないと“焼きすぎ有罪”だよっ!」 聞き覚えのある声。 顔を向けると、革ジャンに浴衣帯を巻き付けた人物。花霞地裁の判事、司 法子であった。
西園寺の出店している屋台で、焼きそばを焼いている。 「は、判事ぃっ!? な、何をしておられますのっ!」 驚愕した菊乃は駆け寄り、声を張り上げる。 「アルバイトは規則違反ですわ!」「いやいや〜、地域ボランティアはノーカンだよ♪」
法子はにやりと笑い、隣の老紳士を見やる。 「おキクさん、まさか“じいや”なんて呼んでないよね?」「……あ、あわわわ……っ!」
「左様でございます」
じいやがさらりと答え、周囲の空気がざわついた。 「こ、これっ! じいや、何を言っておりますのっ!」 菊乃は耳まで真っ赤になり、必死で否定する。 「さすが“おキクお嬢様”!」「は、判事っ……からかわないでくださいませっ!」
涙目で叫ぶ菊乃を横目に、西園寺 慎は苦笑した。 「……せっかくの祭りだ。二人で楽しんで来い」 法子は一瞬でヘラをしまい、菊乃の腕を引いた。 そのまま人混みへと消えていった。まずは射的の屋台。
法子が銃を構えると、パンパンと景品が落ちる。 ぬいぐるみや駄菓子が床に散らばり、店主は青ざめた。 「おいおい、景品なくなるぞ!」「これは規則違反ですわ!」
菊乃は慌てて景品を押し戻す。 だが両腕に抱えきれないほどの山になった。 子供たちは歓声を上げ、大人たちは苦笑する。 法子は得意げに笑みを浮かべた。(……この人は、どうしてこうも目立つことばかり――)
次は金魚すくい。 水面に提灯の灯りが揺れ、金魚が泳ぐ。 法子はポイを構えたが、水槽に手を突っ込もうとする。「判決! 全員釈放〜!」
「おやめなさいませっ!」
菊乃はその手をつかみ、必死に引き戻す。 周囲から笑いが起こり、店主も肩を揺らした。 結局ポイは破れ、一匹しかすくえなかった。 「でも見て! この子、やたら元気だよ!」 法子は金魚を掲げて笑う。 近くの子供が「すごい!」と声をあげ、法子は胸を張った。 「でしょ? 判決は“無罪放免”なのさっ!」「だからっ! ここは裁判所ではありませんのよっ!」
菊乃は声を荒げた。 だが、無邪気に笑う法子を見ていると、言葉は空回りするばかりだった。 最後はかき氷。 赤、青、緑、黄色――。 山盛りの氷が虹色に染まり、客がざわめく。 「ジャーン! 七色かき氷〜っ!」 法子はスプーンを突き立て、ためらいなく口に入れた。 「……マズっ!」 舌に広がった甘さと苦味に顔をしかめる。 一瞬の沈黙ののち、笑いが起こった。 「味覚を破壊する行為ですわ!」 菊乃は扇子で顔を隠し、ため息をついた。 だが、虹色の舌で笑う法子は子供のように無邪気で――憎めなかった。(……まったく。この人は破天荒で規則知らずで……)
菊乃は頬を赤らめ、首を振った。
(いえ、そんなはずはありませんわ! 好感など抱いてなるものですか!)
スターロードの通りを進むと、あちこちから声が飛んだ。
「おやまぁ、ノリちゃんじゃないかい!」「おかえり、ノリちゃん!」
屋台のおばちゃんたちが笑顔で手を振る。 法子も手を振り返し、世間話に花を咲かせる。 「いやぁ〜、この焼きトウモロコシ、最高っ!」「ノリちゃん、また顔出しなさいよ!」
「へいへい、任せといて☆」
菊乃は目を瞬かせた。(……裁判所では規則知らず。なのに、ここでは“ノリちゃん”と呼ばれ、笑顔で受け入れられている……)
「……は、判事。まさか、地元でここまで……」「ん? おキクさん、驚いた?」
法子は肩をすくめて笑う。 「ここじゃあたし、チビの頃からノリちゃんだからさ〜」 おばちゃんが茶化した。 「隣町まで有名な悪ガキだったんだよ、この子は!」「ちょ、ちょっとぉ! 余計なこと言わないでよ!」
法子が慌て、周囲はどっと笑う。 「それにしても……あんたたち、いいコンビだねぇ」「ち、違いますわ!」
「はいはい、“おキクお嬢様”〜♪」
法子が追い打ちをかけ、笑いが広がった。 「ノリちゃん、そのきれいなお嬢さんは新しいお友達かい?」「そうそう、あの東條カンパニーの社長令嬢様さ☆」
「えっ、東條カンパニーの……!」
「まさか、あの大企業の……!」
「あ、あわわわっ……!」
菊乃は真っ赤になり、慌てて言葉を探す。 「い、いつも、ウチのノリコが……! ……いえ、ノリコ判事がっ……!」 取り繕おうとするが、空回りするばかり。 笑いの輪が広がり、祭りはますますにぎやかになった。 「ね? おキクお嬢様もすっかり人気者だよ♪」「は、判事ぃ〜っ!!」
菊乃の悲鳴が夜空に響いた。 「判事のお姉ちゃん、またプリンの話して!」 子どもたちが声を上げる。 「プリンはね〜、甘さと苦さのバランスが――」「子供たちに間違った教育をしないでくださいませ!」
菊乃が姿勢を正して声を張る。 笑いと歓声の中、西園寺が焼きそばを運んできた。 「……お前ら、完全に祭りの主役じゃないか」「当然☆ ロックスターはどこでもステージを作るのさ!」
「わ、わたくしは舞台に立ってなどおりませんっ!」
菊乃は真っ赤になって否定した。縁日をひとめぐりし、二人は西園寺の屋台へ戻る。
夜空には花火の予告アナウンス。祭りは佳境を迎えていた。 「おかえり。ほら、ご所望の品だ」 西園寺が差し出したのは巨大な“おばけプリン”。 直径二十センチにホイップとチェリーが山盛りだった。 「きたきたぁ〜っ! これだよこれぇ!」 法子はスプーンを突き立て、目を輝かせる。 「……本当に、これを全部食べるつもりですの?」 菊乃は呆れながらも隣に腰を下ろす。 法子はすくったスプーンを差し出した。 「ほら、おキクさんもひと口」「なっ……じ、自分で食べますわ!」
「まぁまぁ、はい、あーん☆」
観念した菊乃はプリンを受け入れる。 濃厚な甘さと苦味に、思わず目を細めた。 「……悪くはありませんわね」「でしょ! これが“おばけプリン判決”だよっ!」
法子は笑い、さらにスプーンを突き立てた。 菊乃は扇子で口もとを隠し、そっとため息をつく。 だが、胸の奥は温かかった。(……射的で景品を山ほど抱え、金魚すくいでは無茶をし、かき氷で舌を虹色にして……商店街では“ノリちゃん”と呼ばれ、わたくしは“お嬢様”とからかわれて……)
振り返れば恥ずかしさと呆れの連続。
だが、不思議と嫌な気持ちは残っていなかった。(……まったく、こんな一日を“楽しい”と思ってしまうなんて)
大きな花火が夜空に咲く。
橙と碧の光が街を照らし、ざわめきが広がった。菊乃は横顔を盗み見て、小さくつぶやく。
「……少しだけ、楽しんでしまいましたわ」「ん? なんか言った?」
「な、なんでもございませんっ!」
菊乃は慌てて顔をそむけた。 花火の轟音。 鮮やかな色とりどりの光が、二人の笑顔を照らし出した。花火が夜空を彩るなか。
屋台の陰で二人の大人が並んでいた。 西園寺と、菊乃に仕える執事。執事は遠くで笑う二人を見つめ、静かに言った。
「……菊乃お嬢様が、あのように楽しそうに笑われるのは初めてかもしれません」 西園寺は腕を組み、鼻で笑う。 「だろうな。あいつは相手が誰だろうと、幸せにしちまう……変な女なんだよ、ノリコってやつは」 二人はそれ以上言わず、夜空を見上げた。 弾ける光の下で、笑い声はまだ続いていた。 (つづく)法子「――はいっ、ここまで読んでくれてありがとねっ☆ 『法廷にはコーヒーとプリンを』これにて閉廷しまーす!」菊乃「判事っ! あとがきでまで“閉廷”を叫ぶなど、前代未聞でございます! せめて“ありがとうございました”にしてくださいませ!」 法子「じゃあ、“閉廷ありがとうございました〜☆”」菊乃「組み合わせがめちゃくちゃですのよ!」 法子「でもさぁ、ちゃんと最後は“プリン・エトワール”でしめられたでしょ? おキクさんだって、頬ゆるんでたじゃん?」菊乃「ゆ、緩んでなどおりませんっ! あれは……プリンの質を確認するために真剣な表情をしただけで……!」法子「読者のみんな、聞いた? “真剣にプリンを味わう”って、なんかすごくお嬢様らしいでしょ☆」菊乃「判事っ! 勝手に変換しないでくださいまし!」 法子「あ、そういえばさ。おキクさん、“何度でも一緒に”って言ってくれたじゃん? あれ録音してあるから、次の裁判で流してもいい?」菊乃「ななななっ……!? 録音!? そんなものを証拠品のように扱わないでくださいませぇぇ!」 法子「え〜? でも“判事のいじわるぅぅぅ!”って叫んだのも、いい感じに録れてるよ☆」菊乃「も、もはや辱めでございますわ……! どうかお慈悲を……!」 法子「はいはい、冗談冗談。……でもさ、第二部がもしあるなら――またプリン食べながら騒ごうねっ☆」菊乃「はぁ……結局最後まで、食べ物でまとめるのですか……。ですが……皆さま、もし次がございましたら、そのときもどうか温かく見守っていただけますと幸いでございます……(深々と一礼)」 法子「よしっ! それじゃあ最後にみんなで復唱しよっか! “甘味の過剰摂取には 気をつけましょう☆”」菊乃「そんなあとがきの締め、聞いたことがございませんわぁぁぁっ!」
花霞地方裁判所桜都支部・小法廷。 ばさり。黒い法服の裾を翻し、判事・司 法子が入廷した。「令和15年(ワ)第311号、都市再開発差止請求事件――開廷しまーす☆」「判事っ! 開廷の宣言を遊ばないでくださいませっ。不謹慎でございますわ!」 書記官・東條菊乃が思わず声を上げる。 年明け最初の法廷。 満席の傍聴席から笑いが漏れ、空気が少し和らいだ。 原告はスターロード商店街の小規模店舗と住民たち。 代理人は高梨悠一。 被告は桜都市と花霞州、そして外資系デベロッパー、ネクサス・シティ・デベロップメント。 代理人は白川真理子。 冷静沈着な大手事務所の弁護士だ。 第1回口頭弁論。 高梨が熱の入った言葉で訴える。「スターロード商店街は半世紀以上、暮らしを支えてきました。八百屋も書店も喫茶店も――顔を合わせ、支え合う場所です。再開発でそれを奪うのは、取り返しのつかない損失です!」 白川が資料から目を上げる。「歴史は尊い。しかし現実をご覧ください。老朽化、空き店舗、利用者の減少。このままでは“廃墟”です。再開発は未来へ生き抜くための必然です」 高梨は食い下がる。「古いものを壊すだけで未来は生まれません。記憶や心を置き去りにして――それを真の未来と呼べますか!」 白川は淡々と返す。「情緒では都市は守れません。必要なのは合理性と効率。新しい施設、道路、雇用――それが目的です」 法子が短く釘を刺す。「双方、感情に流されず論点を整理してね。裁判は討論会じゃないよ」 主張が出揃た。「――第1回口頭弁論はこれで終結にします。次回、第2回期日に判決を言い渡します」 菊乃はペンを止め、法子の横顔を見る。 飄々とした表情。 だが、その目にはかすかな迷いが揺れていた。 法廷を出ると、庁舎前は記者の波。 フラッシュが瞬く。「今回の行方は? 」「判決の方向性は? 」「あっ、暴走した書記官だ! 」 質問が矢継ぎ早に飛ぶ。 菊乃は固まり、顔が真っ赤になる。「あわわわ……わ、わたくしが……発言する……こと……」 そのとき、法子が割って入り、軽く笑った。「判決はまだでしょ〜。ね、もうちょっと空気わきまえてくれないかなっ☆」 一瞬、記者が静まる。法子は菊乃の腕を取り、人垣を抜けて走った。「は、判事っ!? 走るのですかっ!」「質問攻めだも
年の瀬。12月30日。 桜都市の商店街は、買い出しの人々でにぎわっていた。 東條菊乃は日傘をたたみ、ためらいなくカフェ・ロッソの扉を押した。 カウンターに着くなり、マスターの西園寺に目当ての品を注文する。「本年最後の……ご褒美ですわ」 目当ては期間限定スイーツ。 艶やかに盛られた苺のミルフィーユ仕立てが、白い皿に映えていた。 一口。 サクサクのパイ生地、甘酸っぱい苺、ふんわりクリーム。 至福の甘みが広がり、菊乃の頬がゆるむ。「……んっ。これは……しあわせ、でございますわ……」 ふっと笑みが漏れる。 普段とは違う柔らかな表情だった。 カラン。 扉のベルが鳴り、店の空気が一変する。「よう、ロックスター! 今日も一段とイカしてるじゃねぇか」 マスター・西園寺慎の声に、客が一斉に振り返る。 革ジャンにフリフリのミニスカ。 カラフルなニーハイ、そして大きめサングラス。 鼻歌まじりに現れたのは――花霞地方裁判所桜都支部、判事、司 法子。 菊乃はフォークを落とし、目を剥いた。「は、判事っ! なんですかその珍妙な格好は! 今は令和の時代ですのよ!」「おばけプリンと、地獄のコーヒーちょうだい☆」 本人は悪びれず、カウンター席に腰を下ろした。「……了解、了解」 西園寺は肩をすくめて注文を受ける。「おや、おキクさん、奇遇だねぇ! 今日は年末特別コスだよっ☆」「コスではございません! 羞恥心という言葉を存じないのですかっ!」 菊乃が顔を真っ赤にして立ち上がる。 その姿に、法子は楽しそうに笑った。「まったく、お前は変わらねえな」 西園寺がカップを磨きながら言う。「昔、バンド組んでた頃も、似たようなこと言ってた奴がいたっけ」「やめろって!」 法子が慌てて制止するが、マスターの口は止まらない。「お嬢様は知ってるか? ノリコは昔、インディーズで絶大な人気だったんだぜ。ライブは満員、雑誌の特集に深夜番組。バンド名は――」「言うなってば!」 法子は顔を真っ赤にして手を伸ばすが、小柄な腕はカウンターの中の西園寺に届かない。 その名はあっさり告げられた。「――爆裂!ぷりん倶楽部……通称、ばくぷり」「ぷ、ぷりんくらぶ……!? 判事が――人気バンド……? ちょっと意味が分からないですわ――ご説明を!」 菊乃はカウンターに手を
花霞地方裁判所桜都支部・執務室。 机の上には訴訟記録の山。 横には空になったプリンカップと缶コーヒーが転がっている。 法子は朝から独り言をこぼし、書類をめくっては閉じ、ペンを落としてはため息をつく。「……どっちに寄っても、誰かが泣く」 ぼそりと漏れた声に、菊乃は息を呑む。 いつも軽口ばかりの法子が、珍しく背中を丸めていた。「判事……お加減が悪いのであれば、少しお休みを」「いや、大丈夫。おキクさん。ただ……条文と違って、人の最期はその行間からこぼれ落ちるんだよね」 菊乃は迷った末、机上の空き缶をそっと片付ける。「契約の拘束力は重んじるべき。ですが……本人の“もう十分”という意思を無視するのは、わたくしも違うと感じます」 法子はまだ開けてないプリンカップを指先で弾いた。「プリンだって揺れても芯は残る。判決も、そうあるべきなんだ」 菊乃は返す言葉を失い、ただ横顔を見つめる。(この方は……立ち止まって崩れるのではない。迷いながらも進んでおられるのですわ) ――朝の光が差し込む廊下。 法子は黒法服を腕にかけ、窓ガラスに映る自分をじっと見ていた。 張りのない隈の浮いた顔で、口角を上げてつぶやく。「おキクさん、どう? 今日の顔、五割増しくらいで“冷徹裁判官”に見えるでしょ?」「……とても、そうは見えませんわ」「だよねぇ〜。疲れてるのバレバレか」 無理に明るく振る舞う姿に、菊乃は小さく眉を寄せた。「判事……少し、屋上へ参りましょう。風に当たって、一服されては?」 法子は目を瞬かせ、笑いを含んだ吐息をもらした。「ふふっ。おキクさんが誘うなんて、珍しいね」 ――朝の風が冷たい屋上。 法子は黒法服を脇に置き、ポケットからハイライトを取り出す。「屋上で吸う一本は格別なんだよ」 火をつけ、一口。白い煙が流れていく。 菊乃もマルボロ・メンソール・ライトに火をつける。「誘ったわたくしが言うのも妙ですが、連日連夜の徹夜、多量の喫煙、不規則な食事……お体を壊されては困りますわ――けれど、本日は特別に見逃して差し上げます」 菊乃の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。「ありがと。じゃあ、この一本で気持ちを切り替えるよ」 煙を吐き、目を細める法子の横顔には、人の尊厳に踏み込む覚悟が滲んでいた。(この方は……どんな迷いを抱えても、前を
花霞地方裁判所桜都支部・小法廷。 照明の白さが冷たく、時計の秒針がひとつ、またひとつ音を刻む。 書記官の東條菊乃は姿勢を正し、息を潜めていた。 「令和15年(ワ)第290号、介護費用負担請求事件。開廷します」 判事、司 法子が開廷を宣言する。 いつもなら軽口を挟む彼女だが、今日は硬い響きしか残らない。 菊乃は背中越しに普段と違う雰囲気を感じ取った。(……本日は、法服のパフォーマンスも軽口も出ませんのね) 原告は社会福祉法人桜寿会・花霞ケアホーム。代表は柳田昭夫。 穏やかな人柄だが、人手不足と経営難に疲弊していた。 被告は山岸美佐子。45歳。 母・八重を施設に預けた娘である。 原告代理人は神谷亮介。40代前半。 条文と判例を武器に、冷静沈着に論を組み立てる弁護士だ。 被告代理人は川嶋真理。30代後半の気鋭の女性弁護士。 依頼人に寄り添い、熱を込めて戦うことで評判を得ていた。 無機質な照明の下、四人の視線が交錯する。 論理と感情、契約と尊厳。 そのどちらも、これから天秤に乗せられようとしていた。 法子が争点を整理する。 「本件の争いは、延命措置に伴う追加費用についてです。原告は契約に基づく請求を主張し、被告は“本人の意思に反する延命は無効”と訴えています」 傍聴席には高梨悠一。法子の司法修習時代の同期。 ノートを開き、真剣な目で法廷を見つめていた。(……めずらしいな。いつもの法子じゃない) 原告代理人、神谷亮介が口を開く。 眼鏡越しの視線は冷静沈着だ。 「延命措置は、被告・山岸美佐子様の要望に基づき、医師の判断で実施されました。民法第415条は債務不履行を定めていますが、本件は契約に基づく給付義務の履行です。被告が家族として同意された以上、医療行為は適法であり、追加費用は契約上の債務として支払うべきです」 神谷は判例を重ねる。 「東京高裁平成22年判決でも、『家族の同意を得て行った延命措置の費用は契約に基づき支払義務がある』とされています。介護契約は準委任契約の性質を持ちます。家族が同意した以上、その行為は有効です」 淡々とした声は、冷たい論理の刃となった。 柳田昭夫は疲れきった表情のまま俯いている。 「被告代理人、意見はありますか」 法子が目を向けると、川嶋が立ち上が
大荒れとなった第2回口頭弁論期日から一週間が過ぎた。 桜都支部の執務室には重苦しい沈黙が広がっていた。 裁判内での規律違反について、菊乃は所長の訓告にとどまった。 桐生所長自身は本局からの口頭注意で済んだ。 裁判翌日に桐生が本局へ走り、深々と頭を下げて最低限の処分に抑えた結果だった。 桐生は机の引き出しから新しい胃薬を取り出す。 「頭を下げるのが私の仕事だ……これからもよろしく頼む――イタタタ」 みぞおちを押さえながら苦笑する。 その一言に、張りつめていた空気がほんの少しゆるむ。 事務官たちの間にかすかな安堵が走った。 窓の外は冬の曇天。 薄い光が書類の山を冷たく照らしていた。 東條菊乃は、一週間前の自分の叫びを耳の奥で反芻し、肩を落としていた。 ペンを取ろうとする手は、まだ震えている。 そこへ法子が椅子にもたれ、片手をひらひら。 「――『契約自由の原則なんて、くそくらえでございますわっ!』」 菊乃の声色を真似る。 空気が一瞬止まり……事務官の一人が吹き出した。 「は、判事っ……! そのような真似をなさらないでくださいましっ!」 菊乃の頬が真っ赤になる。 だが法子はけろりと笑った。 「まあまあ、判決考えてくるから、おキクさんは気楽に待っててよ☆」 桐生は眉をひそめたが、ため息とともに合議室へ。 ――裁判官三名による評議。 円卓を挟み、裁判長の桐生重信、左陪席の法子、右陪席の真壁京太が着席する。 記録と判例のコピーが重なり、紙の匂いが漂った。 桐生が口火を切る。 「契約自由(民法521条)は私的自治の柱だ。全面無効には慎重であるべきだろう」 法子が即座に返す。 「“自由”を掲げて不均衡を固定化するなら、それはもう自由じゃない。公益の名で弱者に呪いを刻む契約は、法が否定しないと☆」 真壁が資料を繰り、冷静に言葉を置いた。 「落としどころが必要です。違法部分を切除し、残部は生かす。部分無効と一部救済。判例の流れにも沿います」 議論は数時間に及んだ。 “正義とは手続か、実質か”。 言葉はやがて結論へ収束する。 ――一部条項無効。原告の請求は一部認容。契約全体は維持。 三人は静かに頷き合った。 令和15年(ワ)第234号 桜都市水族館建設請負契約 無効確認請求事